機嫌が悪いとき、あの子のそばにいると何となく気が引けることがある。
「犬に気を遣っても仕方ないのに」と思いながら、それでもあの子が何かを察しているような気がして、いつもより優しく話しかけてしまう。飼い主なら一度は経験したことがあるんじゃないかと思います。「あの子は私の気持ちがわかるんだろうか」という問い。
その問いに、最近の研究が少し違う角度から答えを出しました。
「演じていない」感情への反応を調べた
マックス・プランク進化人類学研究所(ドイツ)のBräuerらが2024年にAnimal Cognition誌で発表した研究は、犬が飼い主の「本物の感情」にどう反応するかを調べました。
「本物の感情」というのが、この研究の肝です。これまでの多くの実験では、人間が感情を「演じた」ものを犬に見せていました。泣くふりをする、笑顔を作る——そういった演技に対して犬がどう反応するかを測る方法です。でも実際の日常生活では、私たちは感情を演じているわけではない。
そこでこの研究チームは、飼い主が本当に悲しんでいる状態、本当に喜んでいる状態を実験室の中で作り出す方法を選びました。飼い主に感情を誘発する動画を見せ、実際に気持ちが動いた状態で犬と接してもらうというものです。飼い主は「犬に新しいトリックを教える実験」だと説明されており、研究の本当の目的——感情認識の調査——は知らされていませんでした。
実験には77頭の犬(さまざまな犬種・品種、平均年齢5.7歳)とその飼い主が参加しました。
3つのグループで何が違ったか
飼い主は3つのグループに無作為に割り当てられました。「悲しい動画を見るグループ」「うれしい動画を見るグループ」「感情を誘発しない中立的な動画を見るグループ」です。
動画を見た後、飼い主は犬に「コーンを回って戻ってくる」という新しいトリックを教えるよう求められました。この訓練の場面で、犬の行動が録画・分析されています。
飼い主自身に感情が誘発されたかどうかは、実験後に0(悲しい)から10(うれしい)のスケールで評価してもらい確認しています。悲しいグループの飼い主は悲しい動画の後に平均4.41点と評価し(中立動画後の平均6.93点と比べて有意に低下)、うれしいグループの飼い主は7.65点と評価しました(中立動画後の6.38点より有意に高い)。
感情の誘導は成功していました。そして、飼い主の行動には研究チームも含め誰にも気づかれるほどの明らかな変化はありませんでした。それでも、犬は違う反応を示したのです。
「悲しい飼い主」に、近づかなかった
飼い主が悲しい状態のとき、犬はどんな行動をとったか。
まず、犬は飼い主から視線を外しました(r = .38、p = .048)。悲しい飼い主のそばにいるとき、犬は飼い主を見る時間が減ったのです。「表情を読む」とか「飼い主を見守る」のではなく、むしろ見なくなる。
次に、「すわれ」などの命令への服従率が下がりました(r = .42、p = .035)。飼い主が悲しんでいるとき、犬は指示に従いにくくなったのです。
そして、飼い主に飛びつく頻度も減りました(悲しいグループ対中立グループ、v = 0.32、p = .020)。
一方、悲しい飼い主に「近づいたり触れたりする」という行動は増えませんでした。「慰めようとして寄っていく」という反応は、この実験では見られなかったのです。
研究チームはこの結果をこう解釈しています。「犬は『飼い主の何かがおかしい、ある程度距離を置こう。でも遠すぎない場所に』という状態になっていたようだ」と。
犬が「慰める」ように行動するかどうかは、別の研究でも議論が続いています。泣いているふりをした人に対して犬が近づく研究もあれば、状況によっては距離を置く研究もある。本物の感情と演技された感情では、犬の反応が違う可能性があります。今回の研究は「本物の悲しみ」を見た犬が、接触ではなく適度な距離を選んだことを示しています。それは無関心なのではなく、「この状況では距離を保つ」という判断なのかもしれません。
また、服従率の低下については研究チームが興味深い解釈を加えています。「犬は飼い主が気が散っていると感じると、命令に従わなくても大丈夫だと判断している可能性がある」というものです。これは「悲しい飼い主を舐めている」というよりも、「注意が向いていない」という状況を読んでいるということでしょう。
「うれしい飼い主」のとき、犬の成績が上がった
対照的に、飼い主がうれしい状態のとき、犬の行動には別の変化が現れました。
犬の学習課題の成績が上がったのです(r = .46、p = .036)。飼い主が喜んでいるとき、犬はトリックの訓練においてより高い成功率を示しました。
研究チームはこの理由についていくつかの可能性を挙げています。一つは、飼い主のポジティブな気分が犬に何らかの形で伝わり、協力的な行動が促された可能性。もう一つは、ポジティブな状態の飼い主がより効果的なトレーナーとして機能していた可能性。
どちらが正確かは判断できませんが、どちらにしても「飼い主の気分が、犬の学習成績に関係している」という構造は確認されています。
あの子は、演技を見抜いていた
この研究が際立っているのは「本物の感情への反応」を測った点です。
飼い主は自分が感情的になっていることを、犬に意図的に見せようとはしていませんでした。「犬にトリックを教えている」という意識で行動していた。にもかかわらず、犬は飼い主の感情状態に応じて行動を変えた。
研究チームが述べているように、この実験で飼い主の行動に実験者が気づくような変化はなかった。それでも犬は感知していた。視覚、聴覚、嗅覚など複数の情報を組み合わせながら、飼い主が今どういう状態にあるかを読んでいた可能性があります。
「犬は私の感情がわかる」というのは多くの飼い主が感じていることですが、この研究はそれが「思い込み」ではなく、実験室で確認できる反応として存在することを示しています。
気分がいい日、あの子との練習はうまくいく
この発見は、日常のトレーニングの場面に重なって見えてきます。
「今日は調子がいいな」と感じている日に、あの子との練習がうまくいった経験はないでしょうか。逆に、疲れていたり何か気になることがある日に、いつもはできるはずのことが思うように進まなかったことも。
それは「気のせい」ではなかったかもしれない。飼い主の感情状態が、犬の反応を変えていた可能性があります。訓練の環境には、部屋の明るさや音だけでなく、飼い主の今の状態も含まれているのかもしれない。疲れているときや何か気になることがあるときに無理にトレーニングしなくていい、という理由の一つがここにあります。「今日はやめておこう」が、あの子にとってもいい選択である日があるのかもしれない。
この研究が示すのは、犬との関係は一方向ではないということです。飼い主が犬に働きかけるだけでなく、犬もまた飼い主の状態を読みながら行動を調整している。そのことを知ると、あの子との時間が少し違って見えてくる気がします。悲しいとき距離を置いたあの子の行動は、無関心ではなく、「わかっている」の一つの形だったのかもしれないと。