「急に噛んだ」という言葉を聞くことがあります。
でも、犬が本当に「突然」噛むことは少ないと言われています。たいていの場合、前に小さなサインがあった——尻尾を丸めていた、目を細めていた、体が硬くなっていた、低く唸っていた——それを人間が読み取れなかっただけ、というケースが多い。
攻撃行動は「悪い性格」や「しつけ不足」として語られることがありますが、研究が積み重なるにつれ、別の見方が浮かび上がってきています。攻撃の多くは「怖いから防御している」という反応だ、という見方です。
そしてその恐怖の背後には、神経生理学的な要因——セロトニンや腸内細菌叢・脂肪酸といった体内の話——が関わっている可能性があることも、近年の研究は示しています。
攻撃の多くは、恐怖から始まっている
ポーランド・ヴロツワフ生命科学大学の研究チームが2022年にMDPI Animals誌に発表したレビュー論文は、犬の攻撃行動の原因と神経認知科学の応用を幅広くまとめた論文です。2000年から2020年の間に査読論文として発表された研究を対象に、攻撃の種類・原因・ホルモンとの関係・神経認知科学の応用可能性を整理しています。
この論文が整理しているのは、犬の攻撃行動が単一の原因ではなく、複数の要因——行動的・生理的・遺伝的・環境的——が絡み合ったものだ、ということです。その中でも特に一貫して報告されているのが、恐怖と攻撃の関係です。
恐怖レベルが高い犬は、ストレスの引き金(見知らぬ人・他の犬・新しい環境)に接したとき、防御的な攻撃反応を示しやすい。怒っているのではなく、怖いから、守ろうとしている——これが「恐怖に基づく攻撃」の構造です。
2008年から2016年の間に行われた複数の研究を集めたところ、見知らぬ犬に対する攻撃行動は、調査対象となった犬の22〜47%で見られたという記録があります。数字の幅が大きいのは研究ごとに対象犬種・測定方法・環境が異なるためですが、「攻撃的な行動が特別な犬だけの話ではない」という事実は明確です。
フラストレーションも攻撃を引き起こす要因の一つです。リードにつながれているとき、柵の向こうに見えるものに近づけないとき——達成できない目標に直面したとき、犬は吠えたり引っ張ったりという形で反応します。これは「ごね」や「わがまま」ではなく、フラストレーションという感情の自然な行動表現です。その感情を「問題」として抑えようとすることより、何がフラストレーションの原因かを探す方が、解決に近いことが多いです。
痛みも重要なトリガーです。病気やケガで痛みを感じている犬は、触れられることを避けようとして攻撃的に見えることがあります。病院を嫌がる、体の特定の部位を触ると唸る——そういう行動の背後に、痛みという生理的な状態が隠れていることがあります。攻撃を「問題行動」として解釈する前に、体の状態を確認することが必要な場合もあります。
セロトニンという、攻撃と関係する物質
攻撃性と脳内の化学物質の関係についても、このレビュー論文はまとめています。
特に一貫して登場するのが、セロトニンです。セロトニンは「幸せホルモン」として知られていますが、行動科学の分野では「衝動の抑制」に関わる物質として長く研究されてきました。セロトニンのレベルが低い状態では、衝動的な行動が起きやすくなる——これは人間でも動物でも観察されていることです。
犬において、攻撃性とセロトニンの関係を示した研究があります。攻撃行動を示すイングリッシュ・コッカー・スパニエルと、そうでない犬のセロトニン濃度を比較したところ、攻撃的なグループでは318.6 ± 67.1 ng/mLだったのに対し、比較対象の犬では852.77 ± 100.58 ng/mLだったという報告があります。3倍近い差です。同様の関連は別のチームの研究でも確認されており、攻撃的な犬では防御的攻撃を示すグループで最も低いセロトニン濃度が観察されています。
また、攻撃性が高い犬ではコルチゾール(ストレスホルモン)の値が非攻撃的な犬より高いことも確認されています。これは慢性的なストレス状態が攻撃性に関係している可能性を示しています。
セロトニンはトリプトファンというアミノ酸から合成されます。犬の食事中のタンパク質量とトリプトファンの量が、セロトニン産生に影響する——という研究もこのレビューで紹介されています。低タンパク食にトリプトファンを添加することで支配的な攻撃行動を抑制できたという報告があり、食事が行動に関係している可能性を示しています。
さらに、DHA(ドコサヘキサエン酸)などのオメガ3系脂肪酸と攻撃性の関係についても、いくつかの研究が示唆を出しています。ジャーマン・シェパードを対象にした研究では、低コレステロール・低DHA・高いオメガ6/オメガ3比が攻撃性の出現と相関していたという報告があります。DHAは脳の灰白質の構成要素であり、神経機能に深く関わる脂質です。腸内細菌叢との関連を示す研究も登場しており、攻撃の問題は「トレーニングだけで解決できるもの」とは限らない、という視点が育ちつつあります。
「攻撃的な犬」という言葉の前に立ち止まること
去勢・避妊手術が攻撃性を下げる、という考え方があります。このレビュー論文が参照した研究では、その前提に疑問を呈するものも含まれていました。
雄犬の脳のマスキュリナイゼーション(男性化)は胎生期に起きるものであり、成犬・若犬の段階でテストステロンレベルを下げても、すでに形成された行動パターンが弱まるとは限らない。ある研究では、去勢手術を受けた犬は見知らぬ人への攻撃性がわずかに高くなったという結果も出ており、「去勢すれば攻撃が減る」という単純な話ではないことが示されています。
このレビューが示している大きな方向性は、「攻撃は体の複数の層から出てくる」ということです。行動(社会化・トレーニング・過去の学習)、生理(セロトニン・コルチゾール・脂肪酸)、環境(スペース・空腹・痛み・ストレス源)、遺伝——これらが絡み合って、目に見える攻撃行動として現れてくる。
「攻撃的な犬」というレッテルを貼る前に、その子が今どんな状態にあるかを見ること。何を怖がっているか、どこかが痛くはないか、何を必要としているか——を問うことが、出発点になるかもしれません。
犬の攻撃行動研究の著者たちは「攻撃は犬のエソグラム(自然な行動目録)の一部である」と書いています。コミュニケーションの一形態として、犬はもともと攻撃的な行動の能力を持っています。攻撃行動の存在それ自体を異常として捉えるより、それがどんな状況でどんな感情から出ているかを理解することの方が、その子を助ける手がかりになります。適切な社会化、ストレスの少ない環境、食事の見直し——これらは全て、複合的に絡み合った攻撃の要因に、別々の角度から働きかける手段です。
噛んだ、吠えた、唸った——その前の一瞬に、その子の感情があります。怖くて、助けを求めていたのかもしれない。その視点が関わり方を少しだけ変えるきっかけになるとしたら、うれしいです。「悪い子」という評価は、その子への接し方を閉じてしまいます。「怖かったのかもしれない」という問いは、その子への扉を開けたままにしておけます。